SOGネタあれこれ

−またまた思いつきで作ってみました()

かなーり長くなってしまいそうなので再構築中です。

作りかけですがとりあえずUPしました(^^;

はじめに

当ページの内容は筆者が趣味として編集した物です。

出来る限り解りやすいように表現しましたが誤訳や誤表記もありえます。

原典によっては表現が違っている部分を筆者が想像で選択した部分もありますので必ずしも記載内容が正しいとは限りません。

年代や部隊、また、兵士個人によって装備に差異があります。下記は全て参考程度にとどめてください。

そんなわけで雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いです。

内容

偵察員の装備と武器

基本携行火器

消音機関短銃

消音拳銃と消音小銃

重火器と重火器チーム

偵察員の倫理観(作成中)

ハチェットフォース

ハチェットフォースの作戦

ハチェットフォースの襲撃

威力偵察

道路封鎖

犠牲となった中隊指揮官達

COSVN奇襲作戦

登場人物

伝説の男−「狂犬」シュライバー

戦闘詳報

テイルウインド作戦(作成中)

ベトナム戦争と米特殊部隊

偵察員の装備と武器

 

SOG偵察員の基本的な装備は携行する場所(ポケット・ウエッブギア・ラックサック)によって分類する事が出来ます。ヘリの墜落や突然の夜襲等、たとえ何が起ころうとも必ず身に付けている物がありました。

 

ポケットの中にはサバイバルラジオ、シグナルミラー、信号弾、コンパス(方位磁針)、折りたたみナイフ、モルヒネ注射器、塩の錠剤、ペンライト、明るいオレンジ色のシグナルパネルが入っていました。極秘扱いの物としては地図、暗号表、偽造貨幣、偽造文書が有りました。また、秘密作戦に従事するときは認識票や身分証の類など米国軍人を示すいかなる物も携行しませんでした。

 

ウエッブギアには戦闘用の装備を装着していました。第二次大戦当時のBAR用弾帯に装弾された弾倉をきっちり詰め込み、ぶら下げた水筒カバーに手榴弾や小型爆薬、白燐弾、催涙ガス弾を入れました。それらと共に拳銃、ナイフ、水筒、ガスマスク、ヘリコプター抽出リグ(スターボ・ハンセン・スイスシートなど)、包帯、ラペリング用“D”リング、ストロボライトを携行していました。

 

最後にラックサックの中身になりますが、これらは敵から執拗な追跡を受けた時などに捨てても良い物を入れておきました。勿論、生存や作戦に必要不可欠ではないという事を確認した上での話です。概してクレイモア地雷(取り出し易いよう一番上にしておく)、バナナ・ナイフ、食糧、予備の水筒、現地製寝袋、チーム装備の医療品、手錠(またはそれに準ずる拘束具)、ラジオ用予備電池が入っていました。

 

基本携行火器

 

火器ともなるとSOGの兵器庫はかつて無いほどの量に渡る特殊部隊向け火器を保有していました。ドイツ製シュマイザー機関短銃、中国製ロケット砲、ベルギー製拳銃、ソ連製軽機関銃など、押収した物もあれば作り上げた物まであったのです。

 

活動が米国兵士によるものだという事を隠蔽するため、SOGには他国製の武器が必要でした。そうした理由からSOG1967年までラオスにおいては米国製武器を携行しませんでした。米国製武器は当時の東南アジアではありふれた物でしたが、カンボジアにおいては1970年まで使用を禁止され続けました。そして武器の決定は全てone-zero(指揮官)が下していました。

 

スウェディッシュK機関短銃はSOG偵察員にとって標準的な武器でした。銃床を折りたたむと全長21インチとなるその銃は弾薬無しで6.1ポンドという重量で、バランスも大変良く、100%の信頼性がありました。偵察員では36連発の大きな弾倉を12+1(468)携行するのが通例でした。欠点としては致命傷を与えるには不十分な弾丸であったという事です。これは全ての9mm口径機関短銃に言える事でした。

 

SOGのグリンベレー達は9mm機関短銃よりも遙かに殺傷能力の高いソ連製AKを好んでいました。AKは視覚的にも音響的にも便利で、その独特な発射音によって米軍の仕業とは周囲に思われずに済みました。

 

SOGが使っていたAKのほとんどは新型のAKMでした。AKMはプレス加工のスチールを多用しており、本体重量を9.5ポンドから7ポンドに軽量化されていました。SOGの偵察員は非常に多くのAK弾倉を必要としていたため、CISO(対叛乱支援センター)のベン・ベイカーが北朝鮮製AK弾倉を密かに大量調達していました。

 

1967年近くになるとラオスにおいては米国製武器の使用が是認され、CAR-15SOG偵察員のトレードマークになりました。CAR-15とは公式名XM-177(銃身長10インチ)またはXM-177E2(銃身長11.5インチ)の事で、M16と同じ機関部に短銃身と伸縮銃床を組み合わせて全長を40インチから28インチに短縮化していました。実戦投入の結果、銃口の跳ね上がりと耳を裂くような爆風が指摘されましたが、4インチのコンペンセイターを追加する事によって解決されました。

 

毎分700発という発射サイクルのCAR-15M16との違いはただ一つ、照門から照星までの距離が15インチしかなかったため、M16と比較して照準の正確さに欠けていたという事です。

 

標準的な携行弾数は、1個の30連弾倉と21個の20連弾倉との組み合わせで合計約450発でした。実際のところ、偵察員達は20連弾倉に19発だけ装弾し、給弾スプリングの負荷を軽減させていました。

 

SOG隊員達は他の多くの武器と同様、作戦内容に合わせてCAR-15M16を即席改造していました。特筆すべき一例として、CAR-15の銃身とフォアエンドを標準のM16に装着して“mini-M16”にした合成銃がありました。これは非常に取り回しが良い銃でした。

 

SOGで最も使われていた拳銃はブローニング9mmハイパワーでした。多くの偵察員達が45口径ガバメントモデルを携行していましたが、ワルサーP-38やコルト・コマンド・エアウェイト(1)S&Wのスナブノーズも目にする事がありました。

 

通常偵察チームには2名のM79射手(現地人兵)が含まれており、彼らは34秒間隔で続けざまに発射出来るよう充分な訓練を受けていました。これは教本の2倍の発射サイクルに相当します。

 

M79は単発散弾銃のような中折れ式で6.5ポンドの重量がありました。高性能爆薬の弾頭は安全装置の解除に31mの飛距離を要するため近距離での発射には問題がありました。散弾を装填すればグレネードと違って高初速のバックショットを発射する事ができ、大変効果的でした。

 

何人かの偵察員は散弾の代わりにフレシェットという金属ダーツのような装弾を使用していました。これは生身のNVAに対して圧倒的威力がありました。しかしヤブ越しに発射すると貫通力は激減してしまいました。

 

そのような欠点が理由で各チームリーダー達はM79CAR-15の火力よりも劣ると諦めるわけにはいきませんでした。M79の砲身を短縮し銃床を削ってピストルグリップにし、拳銃のような二次兵器にしたのでした。

 

しかしそうした改造もXM148グレネードランチャーの出現によって減少していきました。XM148CAR-15のフォアエンド下部に取り付ける事が出来たのです。更に改良されたM2031971年に導入されてSOGでは多く見られるようになりましたが、いずれも正確さや発射サイクルの面に於いてM79ほどの評価を得られる事はありませんでした。

 

非常に稀ではありましたが、M14XM21SOGで使われました。SOGで最も有名なM14射手は名誉勲章を授与された事もあるボブ・ハワードという人物でした。彼は時々緑色をしたM198複合弾薬を携行していました。それは1発のカートリッジに2発の弾頭が装弾されている物でした。複合弾薬は長距離射撃には不向きでしたが50ヤード前後の距離では好都合でした。ちなみにXM21は第9および第25歩兵師団の狙撃兵養成コースを修了したSOG隊員にのみ限定支給されていました。当然、使用されていた地域も限定的で、越境作戦にはめったに使用されませんでした。

 

 

1:アルミ製フレームのコルト・コンバット・コマンダー

消音機関短銃

 

捕虜獲得や歩哨の始末、さらには偶然の接敵の際にSOG隊員は多岐にわたる消音火器を使用していました。そしてそれらの多くは機関短銃でした。ほとんどの消音器は銃身にねじ込まれたり金具で固定されたりする替わりに、完全に一体化するよう組み込まれていました。

 

捕虜獲得の際はイギリス製ステンMarkUSが好まれました。素早く分解出来る上、ラックサックの中へコンパクトに収納出来るからです。これにより偵察員は更に強力なAK CAR-15を一緒に携行する事が可能になり、捕虜獲得時のみ消音火器を使用する事が出来ました。第2次大戦時に設立されたSOE(英軍特別作戦本部)は秘密工作員を使い、敵軍占領地で破壊活動をさせていました。消音式ステンは近距離射撃には最適で、半自動では極めて正確かつ静粛な射撃が出来ました。難点と言えば、遊底の作動音が必要以上に煩わしかっただけでした。

 

消音式スウェディッシュK機関短銃は全自動射撃機構のみでしたが、ステンよりも著しく正確でした。しかし9mmの殺傷能力には変わり有りませんでした。消音器は6インチもの長さがあり、スウェディッシュK特有の持ち運びやすさが台無しになってしまいました。

 

消音式M3グリスガンはパワフルな230グレインの45口径弾による殺傷能力と集弾性の高さで定評がありました。第2次大戦中のOSS(米国戦略事務局−CIAの前身)によって開発されたこの消音機関短銃は11.5ポンドの重量があり、標準のM3よりも3ポンドの重量が増加していました。毎分450発という遅い発射サイクルは全自動射撃でも単発射撃が容易にコントロール出来、相当に精密な銃撃を加える事が出来ました。

 

SOGで使われたウージー機関短銃はベルギーのFN(ファブリック・ナショナル)社のライセンス生産品で、ヨーロッパから極秘に入手されていました。ウージーはSOGの機関短銃の中でも唯一、現地で標準銃身と消音銃身とを交換する事が出来る銃でした。銃床を折りたたむと全長17インチになるという極端な短さは、HALO(高々度降下・低高度開傘)チームに大変好まれました。

 

SOGが最も使い慣れた消音火器はサイオニクス・サイレント・スナイパー・カービンでした。M1カービンの30口径銃身を9mmパラベラムの銃身と交換し、ブローニング・ハイパワー用13連弾倉を改造(溶接)して20連発にしていました。M1カービンと機構的に最も違う部分は“半自動ではない”という事で、ボルトアクションライフルとして使用していました。というのも、発射の際は遊底が閉鎖したままになるので消音効果が非常に高かったからです。その結果、SOGでは最も静かな「長い銃」となりました。サイオニクス・カービンには標準で4倍率の望遠照準器が装備されていました。目立った欠点と言えば、分解してラックサックに収容出来ないという事くらいでした。しかし実際にAKを持った敵と突発的に遭遇した際、13連発の9mmボルトアクションで立ち向かう事は作戦全般を通してもあり得ないので、その欠点も問題にはなりませんでした。

 

消音拳銃と消音小銃

 

SOGは数種類の消音拳銃を保有していましたが、最も使われていたのは第二次大戦中のOSS

が使っていたハイスタンダードH-Dでした。低速の22LR弾は指音よりも静かな音で、小さな傷しか残さず、腿か尻を撃てば「標的」を殺さずに行動不能にさせる事が出来ました。

 

ベル研究所で開発されたこの銃は、OSSのチーフであった“ワイルド・ビル”ドノバンが大統領執務室にこっそり持ち込んだ事がありました。彼は執務室の隅に小さな砂袋を置き、フランクリン・ルーズベルト大統領が電話をしている最中に10発発射してしまいました。その時の銃は「ドノバンからの贈り物」と銘記され、ルーズベルトがハイドバーグの自宅に飾りました。国際法規に従い、SOGでは命中時に弾頭が広がらない22LR(2)を使用しました。

 

他にSOGが好んだ消音拳銃はSOE32口径ウエルロッドでした。これは本当に静かな銃でした。ウェルウィン試作研究所で開発されたウエルロッドは銃身・消音器・レシーバーが単純なチューブ構造で出来ていました。引き金は板金製で、ゴムコーティングされた32口径コルトオートマチック弾倉がグリップを兼ねていました。装填と排莢はロータリーボルトを掌で回転させて行いました。大型の消音器と閉鎖されたブリーチブロックによってウエルロッドは発射ガスが漏れる事なく、見事に消音されていました。ウエルロッドは接近戦を意図して作られた物でしたが、ラオスやカンボジアでは歩哨を始末するために使用されました。

 

他にSOGで使われた消音拳銃にはワルサーPPKs、ベレッタ32口径オートマチック、ブローニング・ハイパワー、ワルサーP-38sがありました。

 

SOGの小銃用消音器は拳銃用や機関短銃用と違って銃口部に取り付けられる、いわば「外付け装置」で、当時の消音技術に革命をもたらしました。1960年代終盤まで武器担当の技術者達は強力な小銃を効果的に消音出来る訳がないと考えていました。常識的に考えても小銃のマズルブラストはどんな消音器であれバラバラに吹き飛ばしてしまうとされていました。ところがジョージア州のサイオニクス社はその常識を覆してしまいました。特別に拡大された消音チャンバーと螺旋状のガス拡散装置が従来の消音器と変わらぬサイズで効果的にガスを逃げさせていました。

 

SOGの兵器庫には第一世代のサイオニクス消音器が装備された大量のM16XM21が有りました。フランクリン・ミラー(名誉勲章受章者)は色々な長さの試作銃の中から消音器付きM16を標準火器として携行していました。不運にもSOGには5.56mmの亜音速弾が不足しており、超音速の弾音を敵に聞かれていました。しかし、おおよその方角を知られるだけで済みました。

 

確かにSOGの消音器には風変わりな物がありましたが、中には少々凝った物もありました。CCSOne-Zeroだったロバート・グラハムはカナダ先住民が使っていた狩猟用の弓と鋭い三角形の鏃(やじり)が付いた矢を用い、カンボジアでNVAの一団を「狩猟」していました。熟練した弓の使い手であるグラハムは実際にAKで武装したNVA兵士と交戦した事がありました。戦果不明ではありましたがNVAの銃撃は止まり、グラハムが生還した事は確かです。

 

 

2:ホローポイントやソフトポイント等、命中時に弾頭が大きく変形しない弾頭という意味。

重火器と重火器チーム

 

特定の国の兵器に束縛されないSOG隊員達はNVAを打ち負かしたり、各個人にマッチしたり出来るよう常に改造や開発をしていました。その行程においていくつか注目すべき開発がありました。

 

捕獲したソビエト製RPD軽機関銃を調査したところ、ベルト給弾式軽機関銃としては世界最軽量の14.5ポンドである事が判明しました。更に何人かの偵察員は、銃身が短縮されても作動が確実である事に気づきました。SOGがカスタムしたRPDは全長を31インチに短縮され、重量も12ポンドまで軽量化されました。これにより「トンプソン機関短銃より少し重いが短い銃」が完成し、フルパワーのAK用弾丸を敵に浴びせる事が出来ました。このソウドオフRPDはバランスも良く、取り回しも良く、自分の名前を書き込みたくなるほど完璧でした。SOG隊員達は25連発の金属ベルトを応急処置で125連発に増加させた上、薄いリノリューム板をドラム内部に貼り付けて給弾音がカタカタと鳴るのを防いでいました。これによりSOGで最もすさまじい武器が完成しました。

 

一方、米国製M60機関銃も完全に見捨てられていた訳ではありませんでしたが、重量が60ポンドと重く、100連発用のアサルトバッグはだぶついたりよじれたりして上手く射撃が出来ませんでした。そこでカリフォルニアのチャイナレイクにある海軍兵器センターでは「デス・マシーン」と呼ばれる特別なM60射撃システムを開発しました。それには航空機用のフレキシブルなベルト給弾装置が取り付けられ、バックパックのドラムに1000発の弾丸を備えていました。「デス・マシーン」はたった1人の機関銃手が撃つにしては比較にならないほどの火力を誇っていました。しかし75ポンドもの重量を扱うにはプロ野球の長距離打者のような体格が必要でした。

 

NVAの分隊火器だったRPG-2ロケットランチャーは大雑把に言えばM72LAW(Light Antitank Weapon)の対抗兵器でしたが、実際にはRPG85mm弾は4ポンドもありLAW66mm弾に比べて約2倍の重量でした。従ってRPGの方がLAWよりも多くの爆風と破片を撒き散らせていました。このような衝撃的な一面は何人かのOne-Zeroに共産軍兵器を持たせるような刺激となりました。RTニューヨークのマーティン・ベネットはRPGに「ポーキュパイン」と呼ばれる爪を付けたり、弾頭に催涙ガスの粉末を封入させたりしていました。

 

偵察チームが携行した最も重い兵器は20ポンドのM19迫撃砲でした。二脚架・照準器・台座を廃し、更に60mm迫撃弾は落下射撃用と引金射撃用との両方が布製スリングで持ち運ばれていました。M19は第二次大戦時には素晴らしい兵器でありましたが、1960年代の米軍においては既に忘れ去られた存在でした。その小瓶のような形をした高性能HE(Hi-Explosive)弾は小型爆弾に匹敵し、9m×18mの範囲に破片効果がありました。発射筒を巧みに操り、装薬量を調整すれば、砲弾には45mから最大1814mあるいはそれ以上の飛距離がありました。共産圏にはM19と同等の兵器が無く、また、NVA82mm迫撃砲では軽便性も汎用性も無かったので米軍偵察チームに対する即応兵器には成り得ませんでした。そのため、M19が大いにその火力を見せつけていました。

 

熟慮の末、これら重火器は全て各12名からなる「重」偵察チームに運用される事となりました。しかしそれも守られる事はなく、しばしばこっそりと持ち出され、敵を探し出しては血祭りに上げていました。敵軍攪乱のため6名の「軽」SOGチームがNVAの一団に対し60mm迫撃砲を毎秒1発の砲撃で釘付けにし、2挺の125連発RPD機関銃が火を噴き、RPGロケットが炸裂し、グレネードが爆発し、CAR-15が軽快な射撃音を発しました。もちろん、攻撃に際しては出来るだけ早く火力優勢を確保していました。RTカリフォルニアのOne-Zeroだったジョー・ウォーカーが率いる重武装チームがNVAを撃破したのは特に有名でした。重武装チームとはいえ、激しく闘った後は素早く離脱していました。さもなければNVAが終結し、全滅させられる危険性が有ったからです。RTの積極果敢な攻撃は敵を大きく揺さぶり、それに対し6名の典型的偵察チームはより慎重な行動をしました。

 

偵察員の倫理観

(作成中)

ハチェットフォース

hatchet platoon”を初めて訳した時、「手斧小隊」になってしまいました()

いろいろと前後の文面から察してみたところどうやらhatchet forceという部隊があって、その中の1小隊を指しているらしいです。

これはそのまま「ハチェットフォース」と呼んだ方が良さそうですね。

ハチェットフォースの作戦

 

ハチェットフォースはSOGの戦闘部隊で、彼ら緊急展開小隊(または中隊)は偵察部隊の発見したNVA(北ベトナム軍)の拠点や物資貯蔵施設を攻撃していました。戦争末期には長期作戦も立案されました。

 

ハチェットフォース小隊は42名のヤードと4名のグリンベレー隊員に1名の中尉が加わり構成されていました。中隊はその小隊3個で構成され、特殊部隊の大尉が米軍司令部直下で指揮を執っていました。CCN(北部)CCC(中央)CCS(南部)の各方面総監部は最低でもハチェットフォース1個中隊を擁していました。

 

ハチェットフォースの外国人部隊は当初、中国人傭兵達で構成されていましたがピーク時(1970)には約9個中隊に成長し、兵員も全て現地山岳民族となりました。

 

CCSのハチェットフォースが敵軍戦線背後を度々攻撃していたにもかかわらず、1970年まで米国は「ダニエル・ブーン」区域での作戦を認めないという方針をとり続けていました。その区域は南ベトナムの国境脇、つまりカンボジアでした。

 

19693月、CCSは海兵隊のドゥエニー・キャニオン作戦の陰で激戦を展開していました。その場所はケ・サンの南西、ラオス国境でした。このSOG機動部隊はディック・メドウズに率いられて立派に戦いましたが、ビル・オルアク中尉、ボブ・キルブルー中尉、トム・トゥオーミー曹長、ジェリー・シュライバー軍曹、ナサニエル・ジョンソン軍曹ら5名を失ってしまいました。

 

戦争の全編を通して、ヘリコプターの不足からハチェットフォースの作戦は限定的なものとなっていました。12人乗りの僅かなヒューイやキングビーで1個中隊の投入を要求されていたため、SOG隊員達は散り散りになったりLZ(着陸地点)で立ち往生したりしていました。彼らは地上に置かれたままヘリが来るまで警戒態勢をとり続けなければならず、常に危険がともなっていたのです。

 

それだけでなく悪天候で23日ヘリが飛ばなくなると、孤立したハチェットフォースが全滅の危機にさらされるので、大規模作戦は好天時のみ実施されました。

それら数々の制約があったにも拘わらず、各前線基地では年2回も中隊規模の作戦を実施できたのです。

 

ハチェットフォースの襲撃

 

ハチェットフォースの初期の任務は緊急展開攻撃でした。第1回目の作戦はSOGの創設者であり司令官でもあるドナルド・ブラックバーン大佐が立案しました。当初これら短期攻撃には有益な敵の目標に恵まれていました。

 

1967年初期のケースではビル・グリムス曹長率いる1個小隊がラオス山頂のハイウエイ(敵軍道路)110号線付近に降下し、短い戦闘の後なんと250トン(トラック100台分)の米を捕獲しました。また他の成功例としては、ケ・サンの北西25マイル地点にあるNVA駐屯地への中隊規模攻撃が挙げられます。そこで敵軍基地を突破したSOG部隊は対空機銃の銃架貯蔵施設を爆破しました。

 

また、ハチェットフォースはクリムゾン・タイド作戦のような捕虜奪還という華やかな活動もしていました。さらにはB52の爆撃評価(味方の爆撃がどれだけ敵に損害を与えたか調査する事)も行っていました。

 

1967年中期には爆撃評価と敵軍基地襲撃とを組み合わせた作戦も試験的に行われました。B52の爆撃直後に1個中隊100名がラオスに降下し、ホー・チ・ミン・トレイルのNVA司令部を監視下に置いたのです。

 

196763日、CCNのハチェットフォースはケ・サンの北西23マイル地点でオスカー・エイト作戦を実施しました。しかし数百カ所にも及ぶ地下トンネルから攻撃を受け、LZに釘付けとなってしまいました。すさまじい地上攻撃と対空砲火を受け、後退できたのは約1個小隊だけでした。この作戦で23名の米兵(SOG隊員・空軍パイロット・海兵隊ヘリ搭乗員)とその倍以上のヤードが戦死し、6名の米兵が行方不明となりました。行方不明者の中にはハチェットフォース隊員のビル・ラニーとロン・デクスターが含まれていましたが、ハノイの公式発表では海兵ヘリの機銃手フランク・E・シウス伍長ただ1名だけが捕虜になったとの事でした。彼は1973年に解放されました。

 

B52の爆撃直後にハチェットフォースが襲撃するという戦術は1969424日に再度行われました。敵軍の最も重要な拠点であるCOSVN(在カンボジアNVA司令部)がその目標でした。しかし猛烈な反撃に遭った襲撃部隊は壊滅同然の打撃を受けて、伝説の隊員ジェリー・シュライバーを失ってしまいました。

 

これら2つの作戦が頓挫した事により、多くのSOG隊員達は「サイゴンのSOG司令部に敵のスパイが居て、情報が筒抜けになっていたのではないか。」という疑念を抱くようになりました。

 

威力偵察

 

偵察隊が索敵しているのを待つ代わりに、ハチェットフォースは独自の威力偵察を度々行っていました。重武装で敵軍背後を徘徊し、発見した物は片っ端から撃破していったのです。往々にして重武装した小隊が敵の主要ハイウエイ付近に降下し、接敵するまで歩き回るのが普通でした。敵と遭遇しない時はSOG隊員が大量の対戦車地雷や対車両地雷をばら撒いていました。もし強力な敵が出現してもその敵は戦略爆撃機から攻撃を受け、SOG隊員達は包囲される前に脱出していたのです。こうした戦術の思想が威力偵察の根幹となっていたのでした。

 

各方面総監部は小隊規模の越境作戦や威力偵察を毎年15回行っていました。典型となるのは1969年初期のCCNハチェットフォース小隊が行った作戦で、ケ・サンの西を一週間徘徊するという内容でした。ジム・ストーナー大尉の随伴で、ピーター・マクラリー中尉とビンセント・サバティネリ中尉はめざましい活躍をしました。敵のトラック集合施設を発見し、空襲させたのです。しかしそのような好戦績も長くは続きませんでした。

前述2名の中尉が作戦開始6ヶ月目で戦死してしまったのです。

 

1968年、SOGは中隊規模の威力偵察をSLAM作戦という着想に変更修正しました。SLAMとは、Search, Locate, Annihilate and Monitor(捜索し、位置を特定し、撃滅し、監視下に置くという意味)の略です。SLAM作戦は絶え間ない重爆支援が有ったという以外、米軍が南ベトナムで行ったサーチ・アンド・デストロイ(索敵殲滅)作戦と類似しています。初めの中隊規模SLAM51日に開始されました。ユージン・マッカーリー大尉の指揮で偵察隊2個チームが出撃しました。そのうち1チームの指揮官はロバート・ヴァン・ホール、副指揮官はデビッド・チェイニーでした。そのハチェットフォースはハイウエイ110号線を数日間歩き回り、NVAと小競り合いしていました。唯一、RPGの攻撃を受けたジョセフ・シュレーブ中尉が戦死しました。現状維持が難しくなった時、マッカーリー大尉はハイウエイに爆薬を積み上げました。そして道路に深さ20フィートの大穴を明けてから、部隊を脱出させました。

 

このSLAM-1に参加した12名の米兵の内、8名がパープルハート勲章(名誉戦傷賞)を授与されました。負傷兵の中にはユージン・マッカーリー、デビッド・デビッドソン、ジョン・プロバート、ホラス・フォード、テリー・ハムリック、デビッド・ハウス、デビッド・チェイニーが含まれています。

 

6ヶ月後の196811月中旬、ハイウエイ110号線において再度のSLAM作戦、いわゆるSLAM-2が実施されました。8日間もの間ハチェットフォースはハイウエイの西側でNVAを包囲し、泥沼へと追いやり、壊滅させるまで戦いました。しかしこの戦闘で米兵の半数が負傷しました。ボブ・ハワードはその戦功から名誉勲章を進められたにもかかわらず、自らシルバースター勲章に「格下げ授与」してもらいました。その他の負傷者はボブ・ハワード、リー・スウェイン、ロバート・プライス、ウイリアム・グローブス、トニー・ドルフ、ジョー・パーナーでした。ビル・ケンドルは補給中に負傷し、シルバースター勲章はロイド・オダニエルス、リー・スウェイン、ロバート・プライスに授与されました。

 

道路封鎖

 

1969年と1970年の乾期、ハチェットフォースは110号線を寸断するという大胆な作戦を実施しました。それは中隊規模の作戦で、SOGのヘリコプターが3度にわたって100名以上の兵員を高地の頂上に降ろしました。彼らは猛烈な勢いで穴を掘り、木をチェーンソーで切り倒し、夕暮れには攻撃用の塹壕を完成させました。そして道路を完全にカバーできるように機関銃・迫撃砲・無反動砲を配置して火線を設定しました。

 

初回の道路封鎖はCCCA中隊によって行われました。バール・A・マクレランド大尉の指揮の下、1969518日から29日の丸々1週間110号線を寸断したのです。かつてA中隊が配置に付いた時はトラックや自転車が1台もなく、警備兵すら姿を消していました。にもかかわらず、敵の迫撃砲や軽砲で昼夜攻撃を受けていたのです。このNVAの攻撃でA中隊の90mm無反動砲射手が負傷しました。彼はRTサウスカロライナの指揮官トム・ワスコビッチで、自ら進んでこの任務に志願していました。この後、彼はNVAのトラックを何台も撃破しています。

 

敵のトラックがこっそりと通り抜けようものなら、SOG隊員達がすぐさまAC119AC130を呼び寄せて攻撃させました。

 

その1週間後、A中隊は再び高地に戻ってきました。今回の指揮官はボビー・エバンス大尉で、再び1週間道路を封鎖しました。110号線が寸断された事により、行き場を失ったトラックが110号線や92号線から離れたところでひしめき合い、地方のNVA部隊は置き場所に困った物資を野晒し状態で山積みするはめになりました。結果としてそれらは恰好の爆撃目標となりました。

 

A中隊の負傷者はエバンス大尉、ヘンリー・ケンプ、トム・フリン、エド・ガーベット、フランクリン・ルー、その他25名のヤードでした。また、戦死者はヤードのみでした。過酷なほど活躍したのは衛生兵ヴァーロン・カントレル軍曹で、彼はエバンス大尉やロイ・ラムファー、そしてヘンリー・ケンプらと共にシルバースターを授与されました。

 

1年後の1970223日、SOGは従来の戦績を維持すべくスピンダウン作戦を実施しました。再度110号線を寸断し、CCCハチェットフォースのB中隊を同じ高地に送り込み、もう1中隊で高地を占拠してしまうという計画です。

 

B中隊を支援するため昼は戦闘機、夜はAC130AC119が飛び、そしてベン・ヘットの陸軍175mm砲が何百発と砲撃を加えました。しかし前年よりも早くNVAは反撃にでてきました。B中隊の防衛拠点を迫撃砲と無反動砲で攻撃し、対空機銃でその区域を取り囲んでしまったのです。傍受した無電によると北ベトナム正規軍歩兵第27連隊の将兵1500名が無傷でいるとの事でした。

 

5日間にわたる激戦の後、ハチェットフォースは脱出しました。B中隊が脱出用LZまでの1kmを行軍する間、騎兵隊のロイド・オダニエルスは32機のF4200トンもの支援爆撃を行いました。

 

このような重爆が続けられる事により、NVAは行動不能になるか壊滅していきました。

B中隊の約半数が負傷し、ビリー・ポッター中尉はAKの銃撃を受け負傷しました。不運にも戦死したのは特殊部隊のビル・ボイル衛生兵でした。彼の乗ったキングビーがSOGの負傷兵(この後も収容不可だった)を救出しようとした際、撃墜されてしまったのです。その他2名のキングビー搭乗員と10名のヤードが戦死しました。空軍の写真判定により、B中隊はNVA兵力を800名消耗させ敵の交通事情を悪化させたと評価されました。ビル・ブランケンバーグはその勇敢な戦いぶりでシルバースターを授与されました。

 

6ヶ月後にこのB中隊はSOGの歴史上、多くの者が偉大な戦功であったと信じるテイルウインド作戦を実施する事となります。

 

犠牲となった指揮官達

 

グリンベレー達はヤードと共に肩を並べて戦い、その中で3名ものハチェットフォース中隊指揮官を失うという究極の代償を払う事となりました。

 

1967325日、ディック・レゲット大尉の中隊はラオスで放棄された敵軍基地の実地踏査中、物干し竿にNVAの軍服が洗い立ての状態でぶら下がっていたのを発見しました。

レゲット大尉はそれらの情報価値を考慮し写真撮影していたところ、潜んでいたNVA兵士に銃撃され戦死しました。

 

ロナルド・ガレット大尉はCCCで偵察中隊の指揮官をしていましたが、あまりにも退屈なデスクワークが多かったため、ハチェットフォースB中隊の指揮官を志願しました。そして1969924日、彼は墜落炎上するキングビーからマイク・シェパードを勇敢に救出しました。

2日後、ガレット大尉はラオスで大規模な敵軍物資貯蔵施設を発見した際、RPGの至近弾を受けて戦死しました。

 

カンボジアから南ベトナムのプレイ・トラップ渓谷へ物資を輸送する三輪トラックの一団を偵察チームが発見したとき、フレッド・クルパ大尉のハチェットフォースは敵軍兵站施設を襲撃するよう命令を受けていました。1971427日、クルパ大尉がヒューイで先導しLZに降りようとしたところでヘリに敵砲弾が直撃しました。彼は負傷して地面に倒れ、ヘリは更に激しい砲撃を受けて吹き飛ばされてしまいました。

その後救出作戦が試みられたにもかかわらず、クルパ大尉の生死は今も不明です。彼はSOGのハチェットフォース中隊指揮官として唯一のMIA(戦闘中行方不明者)となりました。

 

COSVN奇襲作戦

泥沼化した戦局は如何ともし難く、遂にMACV-SOGは敵軍司令部の奇襲攻撃を計画しました。目指すはカンボジア領内にあるCOSVN(Command Office of South Viet-Nam)でした。

COSVNは南ベトナム全域における統帥権を持ち、ここを撃滅すればハノイと南ベトナムに点在する解放勢力とを分断できると判断したのです。

攻撃に当たったのはCCSのハチェットフォース60名で、彼らの任務はCOSVNの敷地に強行着陸し最多数の敵兵を殺傷、施設の破壊、文書の奪取、捕虜の獲得でした。

事前にB52が空爆して目標周辺に打撃を与えておく算段でしたが爆撃の成果は予想を遙かに下回り、襲撃部隊は解放勢力の猛烈な反撃を受ける事となりました。

登場人物

部隊長                   ベンジャミン・T・カップ・ジュニア少佐

指揮官                   ポール・D・ケイヒル大尉(重傷)

指揮官補(2指揮官)     グレゴリー・M・ハリガン中尉(戦死)

副指揮官(3指揮官)     ウォルター・L・マーカンテル中尉(戦死)

小隊長                   ジェリー・マイケル・シュライバー軍曹(戦闘中行方不明)

小隊付衛生兵             アーネスト・C・ジャミソン軍曹(戦死)

小隊付無線士             Y-Sum.Nie(重傷)

救出部隊隊員             ダニエル・ホール少尉

伝説の男−「狂犬」シュライバー

姓   名:ジェリー・マイケル・シュライバー

階   級:E7

兵   科:米国陸軍特殊部隊

部   隊:CCS MACV-SOG 第5特殊部隊

誕 生 日:1941924日フロリダ州デフニアック・スプリングス

住   所:カリフォルニア州サクラメント(1969424日行方不明当時)

行方不明国:カンボジア(ラオスという説も有り)

不明時座標:165048N 1063158E(XT441913)

状   況:戦闘中行方不明(1973年現在)

戦闘詳報

 

1969424日早暁、シュライバーは60名のSOG隊員達と共に4機のヘリコプターでカンボジアへ出撃。彼らは目標地点に接近したところで、NVA基地からの激しい砲火に晒された。特に機関銃陣地からの射撃はすさまじく、迎え撃つ敵兵力は少なくとも1個中隊以上であった。

 

指揮官のケイヒル大尉が最後にシュライバーを見たのは、彼が機関銃陣地の反対側に移動してヤード(彼が最も信頼していた兵)と共にLZ南西端の森へ入っていく様子だった。ケイヒル大尉とジャミソン軍曹は、クレーター(爆撃跡の穴)から援護射撃をした。ケイヒル大尉はシュライバーの無線機が故障するまでの4時間、シュライバーと無線交信をし続けたがそれ以降シュライバーの声を聞く事はなかった。シュライバーは34回被弾し、その後、敵兵が武器(おそらくシュライバーの銃)を持ち去る姿が目撃されていた。

 

ジャミソン軍曹は突撃時に負傷したヤードの1人を救出するためクレーターを一時離れた。彼はヤードに話しかけたが、ヤードは機関銃の集中射撃を浴びて人事不省に陥っていた。その頃ケイヒル大尉は右目を負傷し、30分後には完全に失明してしまった。無線士のY-Sum.Nieは生存者を即時抽出するよう必死に無線で通信し続けた。

 

ベンジャミン・T・カップ・ジュニア少佐は隊長機からクレーターの端や崩れた土に隠れて釘付けになった小隊を見る事ができた。NVAの機関銃はそれらの正面に向かって激しく射撃しており、さながら地面を火で覆うがごとき惨状であった。指揮官補のハリガン中尉は「戦闘開始後、数分以内に部隊の半数が戦死または負傷。」と報告し、彼自身も45分後に戦死した。

 

武装ヘリコプターとA1Eは襲撃部隊援護のためNVAの防御施設を空襲した。しかし地上からは激しい対空砲火を受けたため、航空機は視界を奪われ更には機銃手1名が負傷。生存者を引き上げようと何回か抽出を試みたがうまくゆかず、援護のためにその場所へは10回の空襲で1500発のロケット弾がばらまかれた。副指揮官のマーカンテル中尉はナパーム弾を彼の前方10ヤードの所まで要求したが、彼と9人の隊員はナパーム弾の炸裂に巻き込まれて焼死した。

 

交戦から7時間後、救出のため3機のヘリコプターが現地へ急行した。3機目の乗員が離陸時にクレーターで何かが動くのを見たので4機目のヘリコプターに搭乗していたホール少尉が2度クレーターに走って行った。1回目は重傷だった無線士を救出し、2回目にハリガン中尉の戦死体をヘリコプターまで引きずって収容した。ヘリコプターは敵砲火を激しく浴びていたためその直後に離陸し、それ以降MACV-SOGNVA拠点に兵力を投入する事はなかった。そしてジャミソン軍曹は戦死、シュライバー軍曹は戦闘中行方不明と宣告された。

 

収容できたのは僅か15名の負傷兵のみであった。

 

 

テイルウインド作戦

(作成中)

 

ベトナム戦争と米特殊部隊

ページが長くなってしまったのでこちらに掲載。

 

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最終更新日: 2023/5/10

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